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坂戸市立図書館

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手紙・上申書・陳上書

資料名内容備考
大川修三から大川花井宛の手紙 修三が妹の花井に宛てた手紙で、鮭・鱈を送ったことが書かれている。明治〇年1月18日付
大川花井宛の手紙 明治17年、平三郎が製紙業研究のためヨーロッパに渡った時の手紙である。イギリスのマンチェスター府から投函されたもので、気遣う花井に「フランスの蒸気船は大丈夫なものにて、・・・決して決してご心配下されまじく・・・」と書かれている。平三郎の優しさが伝わってくる手紙である。明治17年9月18日付
両親宛の手紙 大病を患った兄英太郎を看病するため、平三郎が弟栄八郎と共に大阪に駆け付け、両親に兄の病状などを伝えた手紙である。一時危篤に陥った兄に献身的に看病する平三郎たちの兄弟愛が伝わる内容が書かれている。15日付(明治16年4月15日付と思われる)
大川花井宛の手紙 家族の近況報告とともに三芳野村が河川の氾濫により作物に被害が出ていないか詳しく知らせてほしい旨、関係者に伝えるよう依頼した手紙である。明治〇年8月7日付
渋沢栄一宛の手紙 上記同様、大病した兄への看病の様子を報告するとともに大阪における紙類の需要状況等を報告した手紙である。明治16年5月23日付 写し
三芳野村信用購買販売組合宛の手紙 組合の貸付金について、「催促なしの返金」の美風を養成することを組合員に指示する内容の手紙である。大正11年10月17日 写し
三芳野村信用購買販売組合宛の手紙 筵織り事業を奨励した手紙である。また、「予においては勤労は趣味なり。趣味なるが故に勤労を楽とせり」と書いており、平三郎の労働に対する考え方が示されている。大正13年7月6日 写し
三芳野村信用購買販売組合宛の手紙 筵織りの奨励資金として300円を寄付し、精励勤勉な人に賞与として贈呈する旨の手紙である。大正13年12月 写し
三芳野村有志宛の手紙 三芳野村を豊かな村にするために「有志諸君よく村内の人々を説き・・・大目的を1日も早く達成するに努力せられんことを」訴える内容の手紙である。昭和4年1月4日付 写し
三芳野村会議員宛の手紙 三芳野村の発展のために様々な改善策を示し、「・・・諸君が勉励せば小生は飽く迄諸君を援助すべし」を書かれている。昭和2年3月26日付
大河戸源三宛の手紙 築堤願書の件で帰京後相談したい旨の手紙である。大正10年10月27日付
大隈重信からの手紙 当時総理大臣であった大隈重信から、平三郎に対し理化学研究所の設立発起人として承諾を依頼する手紙である。大正5年9月27日付
後藤新平からの手紙 男爵後藤新平からの手紙で、巣鴨中学校創立に賛同し、援助を願う手紙である。〇年3月1日付
徳川家達からの手紙 明治神宮奉賛会会長公爵 徳川家達から、平三郎を評議員に嘱託する旨の手紙で、嘱託書が同封されている。大正4年10月1日付 印刷物
寺内正毅からの手紙 伯爵寺内正毅から平三郎に宛てた手紙で、連合国傷病兵罹災者慰問の件につき官邸にきてほしい旨の内容である。大正6年2月8日付 印刷物
大河戸源三・原次郎からの手紙 越辺川の曲屈を直通する掘削工事について、埼玉県知事へ上申書を提出したいので、平三郎の名を借りるとともに口添えを依頼する手紙である。大正10年5月3日付
上申書 越辺川の俗に「天狗の鼻」と称する屈曲した川の流れを直通させる掘削工事についての上申書である。平三郎、大河戸源三村長を始め17名の連署により埼玉県知事堀内秀太郎宛提出された。大正10年4月16日付
陳上書 埼玉県知事に提出したもので、一日も早く河川改修工事を施行してほしい旨の陳情書である。大正9年9月16日付
陳上書 落合橋下流河川改修工事について、所管が県から内務省に変更されたため、改めて内務省に提出した陳情書。「計画通り御施行相成りたく、茲に連署を以って重ねて陳上仕り候なり」と書かれている、大正10年11月18日付